結成2年目にあたる昭和53年。各栽培目標を掲げた中に、稲作の農地請負がありました。
自分たちの農地以外に他の農地(家族の都合で作業ができなくなった田んぼや、手放すことになった農地など)も引き受けるというものです。
そこで稲作がこれまで以上に大規模となるため、処理能力のあるライスセンターの建設を開始。
さらにレタス栽培を縮小し、十数棟のビニールハウスを設けプリンスメロンの栽培を始めるなど、新しい試みを次々と展開していきました。今まで細々とやってきた農地に突然トラクターが行き交うようになり、大きな施設が現れる。周囲の人たちは「つぶれるんじゃないか」とヒヤヒヤしながらその様子を見つめていたそうです。ですが、当の本人たちは突き進むのみ。昭和54年には法人格をもたせ、より強力な組織を目指すため「農事組合法人六星生産組合」と名称を変更。結成当初から引き続き、竹多が組合長となりました。
中村「会社経営することは決まっていた。前ばっかり見ていたよ。」
北村「オレたちの頃は、自己主張はあっても内に秘め、みなに合わせるのが基本やった。それが組織で農業を続けてこられたポイントかもな。」
ほんの2年前は普通の農家。傍から見れば何てバカなことを、と思われてもいたでしょう。ただその裏側では、石川の農業界に革命を起こす一つのモデルケースとして期待されていたことも特筆しなくてはなりません。実際のところ市役所や農業組合の熱心な働きかけも大きな原動力でした。逆風と追い風を肌で感 じながら、がむしゃらに駆け抜けた中奥六星生産組合時代は、結果として飛躍的な成長の源流となったのです。
※次回は「農事組合法人六星生産組合時代」(昭和54~64年)」9月掲載予定です。