何故レタスなのか。

レタスの出荷場

今でこそレタスは周知の野菜ですが、当時はめったにお目にかかれないものでした。

北村「家庭で出てくることはなかったな。レストランにあった程度で。」

野菜を生で食べる習慣がなかった時代。農家は生食用野菜作りに消極的で、その生産は微々たるものでした。 火を通したり漬物となる野菜(はくさいなど)は稲作の裏作としてやる方はいましたが、レタスを大量生産するとなると、もはや冒険です。なぜ4人はそんな野菜を選んだのでしょう。


中村武志 昭和19年生まれ

中川「農協の推奨品やったからな(笑)。」
中村「ははは。いや、レタスは金になったんや。」
竹多「1箱(約16個)で8,000円の値がつく年もあったぞ。」
北村「このころからよく肉を食べるようになったから、生野菜の需要も少しずつ高まってきてたしな。」

誰も好んで手を出さないレタス。しかも産地が限られていた為、他の産地が台風などの被害に合うと商品が不足し価値がグンとつり上がるのです。昭和51年、他県のレタス栽培が気象条件によりダメージを受けた際は、1箱1,000円前後だったものが約5,000円に跳ね上がったといいます。残念ながら中奥六星生産組合がスタートした昭和52年は1箱1,000円前後に戻ってしまいましたが、そこは農家の子。くじけるどころか、ますます意気は上がるばかりでした。


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